法性寺とは

初めまして我々は天台宗和田山法性寺と申します。

 

法性寺は、平安時代中期の1016年に比叡山の第22世天台座主、暹賀によって創建されました。天台座主は天台宗の最高位の僧侶であり、暹賀はその時代の代表的な宗教指導者の一人でした。この寺は、衆生の救済、つまり人々を苦しみから救うことを目的とした聖地として設立されました。

 

時が流れ、岡崎城主であった松平広忠公の時代に、法性寺には六つの支院がありました。これらは「定光坊」、「杉本坊」、「中ノ坊」、「密巌坊」、「密祥坊」、「大円坊」と呼ばれ、それぞれ異なる宗教活動が行われていました。定光坊の住僧、永玖は特に徳高く、広忠公から深く信頼されていました。

 

広忠公の要請に応じて、永玖は薬師如来に男子の誕生を祈願しました。薬師如来は病気や災難を除く力があるとされる仏で、この祈願が功を奏して徳川家康が誕生しました。この重要な出来事を評価し、1544年には法性寺の六坊は岡崎城の東北鬼門にあたる甲山地区に移転されました。鬼門は方角の一つで、伝統的に災いが起こりやすい方向とされていますが、この地に寺院を建てることで災いを防ごうとしたのです。

 

現在の法性寺には、大日堂と仁王像があります。大日堂はその名の通り大日如来を祀っている堂で、仁王像は寺院の守護する存在とされ、力強い姿で寺院を守っています。岡崎空襲の際には功山寺の住職の夢枕に立ち、法性寺に戻りたいと訴えたそうで、そんなことから甲山寺から戻りました。不思議な話ですが、実際にその後岡崎市は空襲の憂き目にあい、そのような中でも法性寺は守られました。

今でも山門に仁王像は置かれ、その存在が町の人たちに安心をもたらしています。仁王像の背面に記された「法性寺六坊」の文字は、かつての寺院の規模と重要性を今に伝える貴重な証です。

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